(8月14日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
多くの犠牲
伝令の報告によると、上野の彰義隊は、山内の堂塔に火をかけ、その騒動にまぎれて、退却したという。
益次郎が空けておいたといわれている寛永寺の東方に向かって、敗走していったのである。
戦いが終わったのは、午後5時頃であった。
この日、東征軍は41人の戦死者を出したが、彰義隊の戦死者は200人以上とされ、正確な数は不明である。この戦いによって、町人も犠牲になっている。流れ弾に当たったのだ。
寛永寺周辺では約1千戸の民家が焼失。7230人の被災者には、米や給付金が支給された。また、戦いの翌日から20日までの間は、握り飯も配られた。
残煙
その日の夕刻、益次郎は、部下を従え、戦跡を視察した。
東征軍の指揮所となった松坂屋の前には、防御に用いた畳などが多数散乱し、その周辺には、酒樽や握り飯の残飯もあったという。
また、激戦となった黒門付近には、彰義隊士の遺体が7体横たわっていた。
そして、山内には残煙が立ち昇っていた。
(続く。次回は8月28日付に掲載します)