(9月4日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
感状
5月16日、当時、会計事務局判事であった佐賀藩の江藤新平は、同藩執政・原田小四郎に次の手紙を送っている。
「(前略)西郷の胆力、大村益次郎の戦略老練関心難堪御座候。御国よりも御出勢、本郷の団子坂の方へ小銃隊百人、加賀富山屋敷へ大砲二門、彼是御盡力に御座候。殿様にも御登城被遊、右戦争一時は諸藩も餘程苦戦、御国にも戦死両人か、手負二人か御座候」
この日、長州、薩摩両藩は、戦功を褒章され、22日には、大総督宮が、益次郎、参謀・西郷隆盛、寺島秋介の3人を召した。そこで彼らは、脇差一振を下賜された。
24日には、錦旗奉行・穂波経度を横浜病院に遣わした。この時入院兵たちには、鶏卵3千個が下賜されたという。
また、26日には、長州、薩摩両藩の各隊長に、翌日には諸藩の隊長らに対し、感状が授与された。
「今般、上野山内屯集之賊徒追討之輩、終日奮闘、忽及掃撃候條、深感賞候、尚成功之次第、速ニ可遂奏聞候。弥抽誠忠、勉励可有之、仍感状如件」
諸藩の各隊長に与えられたこの感状は、益次郎の考案であると伝えられている。
(続く。次回は9月18日付に掲載します)