(11月6日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
靖国神社
「今日此荘に至る。途又上野の寺中を通る。去夏兵火の為に楼門其外多くは消失。此土地を清浄して招魂場をなさんと欲す」
これは、1869(明治2)年1月15日に記された、木戸孝允の日記の一部である。
この日、上野の諸寺院の間を通った孝允は、この地を清浄にし、招魂場を建てようと考えた。これが、東京に招魂場を建設しようと発起した嚆矢といわれている。
その後、孝允は、招魂場の建設について益次郎と協議することになり、6月11日、建設地選定の結果、九段坂上に決まった。
長州藩では、早くから幕末の動乱に倒れた英霊を祀る招魂場が各地に設けられていたが、こうして東京にも開かれることとなり、6月29日、ここに、靖国神社の前身となる東京招魂社開設の式典が挙行されることになった。
この日は、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争に至る3588柱の神霊が奉祀され、軍務局副知事である益次郎が神前に祭文を奏上した。
それから24年後の1893(明治26)年には、靖国神社に、日本で最初の西洋式銅像となる益次郎の像が建てられた。
(続く。次回は11月20日付に掲載します)