(4月24日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
徳川家処分
当時、大総督府では、徳川慶喜の江戸帰還、江戸城の返還、徳川家所領の現状維持などといった、勝海舟の意見に賛同する者が大半を占めていた。
こうした状況の中、閏4月24日、江戸城に三条実美の姿があった。
そこで彼は、大総督府、各道総督や参謀らを集め会議を開くと、翌日、徳川家に対する処分が内定した。それは、次のような内容であった。
「徳川家の相続人は田安亀之助とする。徳川家へは70万石を与える。居城として駿府城を与える。旗本で所領を持つ者は朝臣として新政府に召し出す。徳川家が所領70万石で撫育できなければ、所領を持たない旗本、御家人も朝臣として召し出す。俸禄も相応に下す。江戸には太政官各局を移す。江戸城は新政府が召し上げる」
この原案を、実美は、有栖川宮熾仁親王に示し、承諾を得ると、その日の夜、徳川家処分が決定した。しかし、内容については、公表することは憚られた。
徳川家の反発を警戒した実美らは、徳川家に対しては、相続の件のみを申し渡し、居城と石高については後日発表することにした。
(続く。次回は5月8日付に掲載します)