(4月10日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
江戸着任
これより先、1868(慶応4)年閏4月4日、益次郎は、軍防事務局判事として、大総督府を補佐するよう命じられ、江戸に着任した。
その頃、大総督府参謀・西郷隆盛は、彰義隊の暴状を、やや黙認する形を取っていた。
隆盛は、江戸城内での戦いには反対であり、治安については、勝海舟らを信頼し、全ては時が解決すると考えていた。
また、東征軍の規律も緩慢になり、制御する勢力も無くなっていた。
このような弱腰の大総督府に対し、不信感を募らせていた京都の新政府首脳は、佐賀藩士・江藤新平を江戸に派遣し、実情を探らせた。
新平は、大総督府が、海舟らに籠絡されていると判断し、彰義隊の討伐を進言した。
しかし、東征軍の戦力では、数千の彰義隊を壊滅させることは不可能に近い。そこで、この現状を打開すべく抜擢されたのが、益次郎であった。
新政府首脳の期待を一身に背負い、江戸城へと入った彼であったが、大総督府の態度は冷淡であった。
参謀たちは、江戸城無血開城を実現させた今、彰義隊と交戦し、江戸の町を混乱させることは避けたかった。
(続く。次回は4月24日付に掲載します)