(4月3日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
衝突
江戸城が明け渡された後、江戸の町では長州藩、薩摩藩、芸州藩ら東征軍の兵士たちが市中を横行していた。
そこで、北白川宮能久親王を奉じ、徳川家霊廟守護を名目に寛永寺に留まっていた彰義隊は、朱文字で「彰」や「義」と書かれた提灯を手に、江戸市中の巡らを行い、東征軍の兵士と度々衝突をした。
彼らは、月代を狭くした講武所風の髪型で、浅黄色の羽織に白い義経袴を着し、朱鞘の大小を腰に帯び高下駄を履いた。
当時の様子を描いた錦絵「名誉新談」には、東征軍が肩に付けていた錦片を彰義隊士がもぎ取った姿がある。
錦片を持ち、得意そうな顔をしている彼の名前は、岡十兵衛である。
彼らは、無政府状態となった町で、盗賊や凶徒を捕え、庶民から人気を博したという。
「情夫に持つなら彰義隊―」
こうして、彼らは、江戸吉原の花魁の間でも持て囃されたという。
だが、5月1日、大総督府によって、東征軍が市中巡らを行うことが決まると、彰義隊の存在意義は失われてしまう。
5月7日、ついに彰義隊、東征軍双方に死傷者が出た。
(続く。次回は4月17日付に掲載します)