(3月6日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
分裂
義兄弟の契りを結んだ渋沢成一郎と天野八郎だが、その後、穏健派の成一郎と、強硬派の八郎は、次第に対立するようになった。
成一郎は、隊士を幕臣に限っていたのに対し、八郎は、身分や器量にかかわりなく隊士を受け入れており、両者の確執は激化していった。
やがて、彰義隊は分裂し、成一郎らは強硬派とは一線を画し、寛永寺の北にある天王寺へと移った。
主導権を握ることになった八郎は、積極的に入隊希望者を採用し、勢力を拡大していった。旧幕府諸隊、脱藩浪人なども加わり、その数は2千から3千人といわれるほどにまで膨れ上がった。
駿府入城
3月6日、親征大総督・有栖川宮熾仁親王が率いる東征軍は、駿府(現・静岡県)へ入城した。
駿府は、江戸と京都を結ぶ要衝の地である。
江戸幕府を開いた徳川家康は、秀忠に将軍職を譲ると、この地に城を構え、朝廷と西南諸藩をけん制したという。
東征軍は、この地を占領することで、勝利の確信を持った。江戸城総攻撃は15日と決まった。
(続く。次回は3月20日付に掲載します)