(2月27日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
香車
その後、彰義隊は、浅草本願寺を屯所とした。
頭取には徳川慶喜の警護を目的とする穏健派の、渋沢成一郎、副頭取には、新政府軍への抗戦をも辞さない、強硬派の天野八郎が任じられ、ふたりは、義兄弟の契りを結んだ。
八郎は、1831(天保2)年、上野国甘楽郡磐戸村(現・群馬県)の庄屋・大井田吉五郎の次男として生まれ、35歳の時、幕府与力・広浜利喜之進の養子となり、幕臣となった。
彼は、強欲な高利貸しの家に乱入して懲らしめたという逸話を持つ、正義感あふれる剛毅な人物であった。
背が低く太っていたが、実に敏捷で、2間(約3・6㍍)くらいの堀は楽に飛び越えたという。
また、剣術にも長けており、その太刀さばきは、目にも止まらぬ程であったといわれている。
八郎は、槍印などの印に「香車」という文字を好んで用いたという。将棋の駒である香車は、前に進むのみである。一歩も引くことのない彼の強い決意がそこに現れている。
「決して香車に恥じず。天地何をか恐れん」。
八郎は、信念を貫き、一直線に突き進んだ。
(続く。次回は3月13日付に掲載します)