(2月20日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
廟算
「一、海陸軍大総督駿府城へ礎陣を被据諸手の指揮被為在候事。一、東海道東山道北陸道三道の先鋒は御沙汰次第諸藩兵隊を揃え速に進発路次諸藩其他の方向を定め二月中左の根拠に地方を占めるを要す―」
これは、北陸道先鋒兼鎮撫使総督府副総督・四条隆平が、京都より同総督・高倉永?に交付した文書の中にある、「廟算」という東征の方策の一部である。
この機密文書は、軍防局にて、益次郎らが作成したものといわれている。
彰義隊
1868(慶応4)年2月12日、徳川慶喜が上野寛永寺に移ったこの日、江戸の雑司ヶ谷の料理屋・茗荷屋への集合を求める文書が、一橋家の家臣たちの間に回った。
家臣たちは、かつて、一橋家の当主であった慶喜を、護衛することを申し合わせようとしたのである。
だが、この日、集まったのはわずか17人。この時、彼らは、自らを「尊王恭順有志会」と称した。こうして、17日には四谷の円応寺で会合を開くと、30余人が集まり、21日の会合では67人が集まった。22日には隊名を「彰義隊」と改めた。
(続く。次回は3月6日付に掲載します)