(2月6日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
東征軍発進
旧幕府内が和戦両論に揺れ動く頃、京都では、明治天皇が、徳川慶喜を賊徒として討伐する詔を発した。1868(慶応4)年2月3日のことである。
6日には、長州藩に対し、東海道、東山道先鋒の令が下された。この時、東征軍に従う長州藩兵の数は約550人。鋭武隊一中隊(軍監・飯田竹次郎)、第一大隊四番中隊ノ一番小隊(司令・有地品之允)、第四大隊一番中隊ノ一番小隊(司令・林英次郎)が東海道に、第一大隊二番中隊(司令・楢崎頼三)、第一大隊四番中隊ノ二番小隊(小隊長・口羽兵部)、第四大隊一番中隊ノ二番小隊(小隊長・原田良八)が東山道に配置された。
9日、親征大総督府では、有栖川宮熾仁親王が大総督に任じられ、慶喜討伐の名目上の最高責任者となった。15日、錦旗と節刀を授かると、兵を率いて京都を発し、江戸へと向かった。
東征軍の参謀は、親征大総督府が西郷隆盛、東海道先鋒兼鎮撫使総督府が木梨精一郎、海江田信義、東山道先鋒兼鎮撫使総督府が板垣退助、北陸道先鋒兼鎮撫使総督府が津田山三郎、奥羽鎮撫使総督府が黒田清隆、品川弥二郎らであった。
(続く。次回は2月20日付に掲載します)