(1月23日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
大坂行幸
3月21日、明治天皇は、大坂行幸のため京都を発った。この時、副総裁・三条実美、長州藩世子・毛利元徳らも随行した。
この行幸は、当初、3月5日の出発予定であったが、当時、京都では、大久保利通による大坂遷都の建議に反対する動きが起きていた。そのため、行幸は遷都の前提と疑われ、延期を余儀なくされたのであった。
23日、天皇は大坂に到着。26日には軍艦に搭乗し天保山沖にて海軍を叡覧。長州藩兵100人と諸藩の兵も朝命によりこれに従った。この日参加した軍艦は長州藩の丙寅丸、華陽丸、薩摩藩の三邦丸、佐賀藩の電流丸、熊本藩の万里丸、久留米藩の千歳丸、広島藩の万年丸、フランス砲艦の8隻であった。
この時、海軍総督・聖護院宮嘉言親王が搭乗する電流丸とフランス砲艦より礼砲が放たれた。
4月6日には、大坂城において陸軍調練、砲術操練の叡覧があったが、この時参加した長州藩、薩摩藩、熊本藩、福岡藩、広島藩等の諸隊の指揮監督の任に当たったのが益次郎であった。その頃彼は、京都と大坂の間を往来し、軍防事務局輔・長岡護美とともに多忙な日々を送っていた。
(続く。次回は2月6日付に掲載します)