五月、一枚のポスターが駅の壁に無造作に貼ってあった。あっ、あなた! 岡山にいらっしゃるのね。
朝靄の中に停まった無蓋馬車から私を見ている女。イワン・クラムスコイ画、『忘れえぬ女(ひと)』。あなたは、少しもお変わりない。
二十年前に山口駅前の喫茶店の壁に飾られていらしたあなたとお会いしてから、私はあなたを忘れられなくなりました。あなたの大きな目は、強い意志と深い哀しみを湛えていました。のんべんだらりと過ごしている私に下されたあなたの視線は、鞭を振り下ろされた衝撃でした。胸が痛かった。
謎めいたあなたは誰? あなたについては、トルストイの「アンナ・カレーニナ」のモデルではないか。いや、無蓋馬車に乗っているのだから貴婦人ではない。いや、この気品は貴婦人だ、数々の噂がある。その美貌は北方のモナリザと言われた。イタリアのモナリザより私達に風貌が近い。壁に飾られた印刷のあなたでなく、本物のあなたに会いたい。私も少し大人になりました。今なら心通わせられる気がいたします。すぐ参ります。願わくば馬車から降りて私に微笑みかけてください。
ごめんなさい。雑用に追われあなたに会いに行けなかった。今度はいつ来日されますか。私がロシアまでお訪ねできれば一番いいのですが。