(8月21日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
混乱
無残にも焼け落ちてしまった寛永寺。その姿はまるで、幕府の滅亡を告げるかのようだった。
東征軍の遺体は収容されたが、彰義隊士の遺体は、血を流し、胴体が切り刻まれたまま放置されていたという。新政府の命令によって収容が許されていなかったのである。一説によると、遺体を収容しようとする者を、残党として捕縛しようとしたのだという。
こうした中、東征軍が彰義隊から分捕った糧米を、市民に分配すると、我も我もと大勢の人たちが押し迫り、50俵、100俵の俵は、あっという間に無くなってしまったそうだ。
また、山内では、焼け跡を見物に訪れた人たちによって、略奪行為が行われた。
寺院に押し込んでいった人々は、僧侶の袈裟衣、仏像、舎利塔、金属製の勾欄の金具、擬宝珠の頭などを担ぎ出した。
だが、その後この行為は、新政府によって厳しく取り締まられ、略奪品は次々に取り上げられた。これを恐れた市民たちは、自分らが持ち帰った品を、道端に捨てたため、道路には金襴の袈裟や、仏具が散乱しているといった、そんな光景が見受けられたという。
(続く。次回は9月4日付に掲載します)