(9月11日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
江戸行幸準備
6月4日、益次郎は、従四位下に叙され、鎮台府民政会計掛となり、江藤新平とともに、治安強化を図ることになった。
これより先、5月19日、江戸には鎮台が置かれ、その管下には、寺社・市政・民政等の裁判所が設けられた。
彰義隊を敗走させたことにより、江戸や関東周辺の地域は、新政府の支配下となったが、民心は安定していなかった。
そこで木戸孝允は、江戸に天皇を迎え入れることによって、民心を引き付けようと考えた。
以下、6月25・27・28日の孝允の日記である。
「七字(時)品川沖に著舶す。一漁舟を雇ひ品川橋向の海岸に着す。松岡屋に至り食事を認む。(中略)十一字頃、品川を出、西城御本営に至る。逢大村與大木と共東着之儀を條公(三条実美)之御次へ相届、大木は去て藩邸に至る。與大村四月来之内外之を談す」
「朝、大久保、大村、大木、諸氏と我居に相会し此度之要件を密儀す」
「朝大雨、此日、大久保、大村、大木、諸氏と江戸府官舎之躰裁よりして関八州の鎮台位置を論じ、條公に言上しー」
ここにも、新政府の中枢に位置する益次郎の姿を見ることができる。
(続く。次回は9月25日付に掲載します)