(11月13日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
兵部大輔
1869(明治2)年7月8日、官制改革が行われ、兵部省が置かれることになり、兵部卿には小松宮彰仁親王、兵部大輔には益次郎が任命されることとなった。
この時、三条実美は右大臣に、岩倉具視、徳大寺實則は大納言、前原一誠、副島種臣は参議となった。
益次郎は、陸海軍の制度を改革し、陸軍はフランス式に、海軍はイギリス式に倣い、新政府にふさわしい軍隊を作ろうと考えた。
また、士官を養成する兵学校を大阪に設置することも説いた。
京都へ
7月27日、益次郎は東京を発った。随従者は兵部省作事取締役である吉富作之助、元奇兵隊士の篠田武造、若党の山田善次郎であった。
8月13日、彼は京都三条木屋町の旅宿へ入った。
14日からは伏見の練兵場で調練の検閲、諸所の兵営を巡回。火薬庫設置所の踏査、大阪における鎮台建設地当の検分、天保山では海軍根拠地の位置を調査した。
大阪で、益次郎の検分に立ち会ったのは、伏見兵学寮権頭の原田一道であった。
(続く。次回は11月27日付に掲載します)