(12月12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
徳川慶喜の東帰
6日午後9時頃、徳川慶喜は夜の闇に乗じて、会津藩主・松平容保ら一部の閣僚とともに、旧幕府軍が籠る大坂城から密かに抜け出した。
彼らは、城門を出る際、門番にとがめられたが、「小姓の交代」と偽り、船着場にたどり着くと、小舟に乗り込み天保山沖へと向かった。当時、大阪湾には、旧幕府軍艦の開陽、富士山、蟠龍、順動、輸送船である翔鶴ら5隻の他、イギリス、アメリカ、フランスの軍艦も碇泊していた。慶喜らを乗せた小舟は、北風が起こす波に翻弄されながら、まずはアメリカ砲艦イロクォイへと乗り込み、その後、開陽へと移るのだが、その時、1艘の船が開陽へと近づいて来た。そこには、側用人・室賀伊予守一行が乗り込んでいた。こうした突然の乱入に、開陽の乗組員らは艦長室や士官部屋を残らず明け渡すこととなり、蒸気室に交代して入ることになった。
一方、慶喜らの逃亡を知った大坂城では、徳川家の権威は一気に消散し大混乱となった。
8日、慶喜らを乗せた船は大阪湾を後にし、紀州沖から遠州灘を漂流、10日午後6時40分浦賀に投錨。11日午前8時、品川沖に到着したのであった。
(続く。次回は12月26日付に掲載します)