(11月28日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
津藩藤堂家の寝返り
一方、男山の麓、科手方面を担当していた薩摩軍は、旧幕府軍の主力部隊の抵抗に苦戦し、堅固な陣地を崩すことができず、犠牲者が続出した。
また、下流の橋本方面においても、旧幕府軍の奮戦により、薩長連合軍が攻めあぐねていた。
だが、ここで思わぬ事態が起こった。淀川対岸で山崎関門の警備をしていた津藩藤堂家の兵、一大隊半千余名が新政府軍側に寝返ったのである。
1月3日の午後より、山崎に滞在していた彼らは、4日の朝、旧幕府軍とともに京都に向け進軍する手はずであった。そして午後4時頃、旧幕府軍の摺見虎蔵が兵を率いて現れたが、彼らは約束の兵ではなく敗兵であった。やがて彼らは、大坂へと退いて行った。
さらに翌5日夜、若年寄・塚原但馬守が兵を率いて山崎台場へ船を乗り付け、「約束どおり兵を連れて来たのでここに駐屯させてもらいたい」と告げた。だが、藤堂家側は、「約束が違う。既に救援の機を失した」との理由で彼らを追い返した。その後、京都より、勅使として、錦旗奉行・四条隆謌が、長州軍に護衛され出向いて来た。そこで彼は、藤堂家に対し、官軍救応、関門警備の勅命を下したのであった。
(続く。次回は12月12日付に掲載します)