(11月21日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
渡河作戦と鬨の声
淀城跡より町を望む。淀城は、1619(元和5)年、伏見城の廃城に伴い、2代将軍・徳川秀忠が、新たに桂川、宇治川、木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの地に、松平定綱に築城を命じ、1625(寛永2)年に竣工した河中の城である。現在、河川の流れは大きく変わり、周囲は埋め立てられている。
1月6日、戦闘4日目。この日も風の勢いは激しく、凍るような寒気が戦場を覆っていた。早朝、長州軍、第六中隊(旧第二奇兵隊)は、淀より約1里のところを渡って進み、第一中隊(旧奇兵隊)、第三中隊(旧整武隊)、第五中隊(旧振武隊)は、淀川を渡り、河堤に登ったところ、旧幕府軍は、原野に畳や藁などを集め胸壁を作っていた。
これに対し長州軍は、一斉に散兵線を敷き進軍。徳山二小隊、岩国一小隊、第八小隊(旧膺懲)は、狐の渡しより進み、八幡の南側を攻めた。第六中隊は、舟に棹さし対岸に上陸。この時、旧幕府軍は、「渡河作戦では半渡を撃つ」といった戦術の基本を無視するなど、戦意は低かったようだ。
河堤に勢ぞろいした長州軍は鬨の声をあげ、散兵で攻めかかった。
(続く。次回は12月5日付に掲載します)