(11月14日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
ふたつの城で
これより先、淀藩より吾が藩に掛け合い候趣は、「淀藩においては、賊徒に与し候所存さらにこれなく、よって会桑(会津藩・桑名藩)らより城に入れ候様、再三承り候えども、一人も相入れず候あいだ、城の儀は焼き払い相成らざる様相願い候。市中の儀は、手広く在陣の賊徒もこれあるべく候えども、取り調べ兼ね候」段申し出候由―。
これは、薩摩藩士・平田九十郎の日記である。
この時淀藩は、薩摩軍に対し城を焼かれまいと必死に懇願し、本丸書院にまで兵士を踏み込ませ検分させた。
薩摩軍は伏兵が無いと確認。一個小隊を城内に残して引き揚げ、焼け残った町屋に宿泊した。
一方、橋本(八幡市)まで後退した旧幕府軍は、そこで防禦線を設営。
大坂城では、徳川慶喜が、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、両藩重役、幕府の諸将と有司役人を集めた。
「事、すでにここに至る。たとい千騎戦没して、一騎となるといえども、退くべからず、汝らよろしく奮発して力を尽くすべし。もしこの地敗るるとも関東あり、関東敗るるとも水戸あり。決して中途に已まざるべし」。
慶喜の熱弁が響き渡った。
(続く。次回は11月28日付に掲載します)