香月泰男のアトリエには有刺鉄線が置かれていたという。彼が2年過ごしたシベリアの収容所は有刺鉄線に囲まれていた。
私の子供の頃、有刺鉄線はどこの野原でも目についた。遊んでいると、等間隔につけられた四本の刺の塊に引っかかり、太腿に多くの傷をつくった。これさえなければただの鉄線にすぎないのに。そう、まさにこの無数の小さな刺の塊こそ、有刺鉄線の本質そのものだった。
その刺を20個だけ描いたこの作品。画面はかなり複雑につくられている。セメントのような重い絵具を、一気にコテのようなもので押し広げる。それをくり返す。そうすることでしか現れてこない複雑でぶ厚いマチエール(絵肌)のなかに、香月はシベリアの記憶をまざまざと呼び起こす「景色」を見出そうとしたのだろう。
刺の形ははっきりと描かれていない。しかし、それが存在する周囲の空間は黒く濁り、いかにも禍々しく、見る者に迫ってくる。
山口県立美術館副館長 斎藤 郁夫