(4月17日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
強行路線
大総督府の対応に対し、益次郎は不満を抱いていた。そのため彼は、京都への帰り仕度をしていたという。
ところが、旧幕府側に対し、強硬路線を支持する輔相・三条実美が、関東監察使として江戸へ入ると、益次郎は大総督府における軍事指揮権を掌握することになる。
当時、西郷隆盛の意を受け、旧幕府側に対し、融和路線をとっていたのが、薩摩藩士で東海道先鋒総督府参謀を務める海江田信義であった。
彼は、旧幕府側の軍艦引き渡し問題では、勝海舟の働きかけを受けて、全ての軍艦の中から4隻の軍艦を引き渡すことで合意したが、その船は、軍艦とは名ばかりの老朽船であった。
さらには、引き渡された軍艦で、旧幕府側の脱走兵を攻撃しないで欲しいという申し出までも受け入れてしまい、念書も書いていた。
こうして、海舟は、彰義隊や榎本武揚が率いる旧幕府海軍などを持ち駒にしながら、大総督府との交渉を有利に進めていった。
しかし、実美の江戸入りによって、それまで融和路線であった大総督府の方針は転換し、新たな展開を見せることになる。
(続く。次回は5月1日付に掲載します)