(1月30日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
慶喜の謹慎
これより先、1868(慶応4)年2月12日、徳川慶喜は、江戸城を出ると上野寛永寺の塔頭・大慈院へと入った。城外で謹慎生活を送ることで、新政府に対し恭順の姿勢を示したのである。
1月12日、江戸城へ入った慶喜は、20日に会津藩の負傷者を藩邸に見舞った。だが、この時彼らは、慶喜のことを「誠に腰抜け御座候」と評し、陰で口々に悪口をいうなど、誰ひとりとして喜ぶ者はなかったという。
その間、旧幕府内では、新政府に対し徹底抗戦するか、謝罪恭順の姿勢を示すか、いずれの道を選択すべきかをめぐり議論が沸騰していた。
勘定奉行・小栗忠順、海軍副総裁・榎本武揚、歩兵奉行・大鳥圭介らは強硬な主戦論を唱えていた。
また、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬も再挙を主張した。
これに対し、陸軍総裁・勝海舟、会計総裁・大久保忠寛らは、徳川家存続のため、恭順を主張した。
こうして、城内において主張される両論に揺られながら、慶喜は、ようやくその態度を明らかにしたのである。こうして、彼の謹慎生活は、2カ月間に及んだのであった。
(続く。次回は2月13日付に掲載します)