(1月16日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
兵学寮の設置
軍防事務局に出仕することになった益次郎は、朝廷の直轄である御親兵の編成を担当することになった。
その頃、京都の二条城には脱藩浪人や医師、僧侶、農民など、勤王家と称する多くの志士たちが集まっていた。そこで益次郎は、そこにどのような人物がいるのかを調べるため、彼らを施薬院という場所に出勤させた。
その当時のことを男爵・三宮義胤は後にこう語っている。
「そのうち、ひとつどこかにこれを本当の兵に仕立てる場所を作るつもりである。それまでのところはとにかく、二条城なり屯しているところに置いておこうという先生の考えで、時折り話して居られる。その兵を本当に仕立てるというのは、後に伏見にできましたあれ(兵学寮)が始まりでありました。それはずっと後のことで、追々そこへ寄った者は、右向け左向けから皆、刀を差して陣羽織を着た者が多かった。それを筒っぽう(筒袖制服)を探して、そうして今の軍隊のとおりのものを皆ひとつ仕立てようというのが大村先生の考えであったのです」
こうして益次郎は、後に伏見に兵学寮を設置し、軍制改革に尽力したのである。
(続く。次回は1月30日付に掲載します)