(12月26日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
世子の東上
大坂城が炎上した1868(慶応4)年1月9日、山口に長州藩の桂太郎の姿があった。彼は、京都より大坂城襲撃の勅命を携え帰藩。10日、これを受け長州藩では、ただちに奉答書を作成、朝廷へ送った。
11日には、尾道より帰藩した井上馨が、兵を山陰道より進め山陽道の兵と合わせて大坂を攻撃する策を建言したが、協議の結果、世子・毛利元徳が自ら兵を率い、22日、山口を出発し山陰道を進軍することとなり、先鋒は、17日に出動することとなった。
随従役員
17日、益次郎は、用所役兼軍政方となった。
この時、山口では、益次郎らが世子の東上について協議をしていた。そこに大坂城落城の知らせが入った。
そこで藩政府は、急きょ、世子の進軍路を山陰道から山陽道経由に変更することとし22日、干城隊中隊惣管・御神本弾正介、先鋒備惣管兼加判役・山内梅三郎、干城隊参謀・諫早作次郎らとともに予定通り山口を出発した。
この日、益次郎も、桂太郎、柏村数馬、横山幾太らとともに随従役員として東上した。
(続く。次回は1月16日付に掲載します)