(12月19日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
江戸城入城
徳川慶喜は、1866(慶応2)年12月5日、15代将軍に就任した。この時、長州藩の木戸孝允は、「慶喜は家康の再来となるかもしれない」と評し、強い警戒感を抱いていたという。だが、戦いに敗れ、大坂から船に乗り荒波に揺られ、将軍に就いて以来、一度も入ったことのない江戸へ逃げ帰って来た彼の姿は実に痛々しかった。
12日、慶喜は上陸するや空腹を訴えたため、家臣からビスケットを差し出されたり、江戸城では布団も与えてもらえず2枚の毛布にくるまって寝たりと、元将軍も実にあわれなものであった。
戦乱犠牲者
9日、大坂城では、城門で白旗が振られていた。この日、長州軍の佐々木次郎四郎は、徳山、岩国兵を率いて城内へ入ったが、そこで突然、爆発音がし、城が燃え始め、ほぼ全焼した。
この、鳥羽・伏見の戦いでは、両軍を合わせて約400人が命を落とした。新政府軍は、長州藩38人、薩摩藩72人、土佐藩2人、合計120人。旧幕府軍は、徳川家100人、会津藩123人、桑名藩11人、大垣藩10人、浜田藩5人、新撰組29人で、合計278人であった。
(続く。次回は1月9日付に掲載します)