(5月15日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
軋轢
当時の軍議の様子を、長州藩の寺島秋介は、こう語っている。
「今度はいよいよ、上野追討の御軍議ということになった。今日では立派な人であるが、その時は勝(海舟)などと終始往復しておった人で、その人と大村が非常な喧嘩をやったのだ。その反対者のいうには、『かくのごとき僅かな官軍をもって、江戸で兵を挙げるということは、実に無謀な話である。既に床の下まで、火が廻っているようなものであるから、もしも殿下(有栖川宮熾仁親王)が御身の上に一朝何事か危害のことが迫ったなれば、再度、京都へお帰りになることもできぬようになる』といって嚇かす。そうすると、大村先生がいうに、『いや、決してそのようなご心配はない。これで充分戦のできぬことはない。益次郎、御受け合い申します』その反対した人を指して、『彼どもは戦をすることは知りませぬ』というものだから、さあ、その先生、憤り出して『戦を知らぬなどということは何事か、益次郎、言語道断な奴じゃ』というようなことで-」
この時、益次郎に反発していたのが、薩摩藩の海江田信義であった。
(続く。次回は5月29日付に掲載します)