(4月25日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
氷解
この日、中関に姿を見せた薩摩船・豊瑞丸には、大山綱良、堀直太郎、三島弥兵衛ら率いる400人の兵士が乗り込んでおり、彼らは三田尻へ入った。
9日には、翔鳳丸、平運丸が小田浦に投錨。長州軍より酒や食料が贈られた。ここに、薩摩藩に対する長州藩の疑念は氷解した。
出兵反対論
薩摩船の到着遅延には理由があった。それは、出兵に反対する者が大勢いたため、彼らの説得に時間がかかったからである。
この時、出兵反対論を唱えていたのが、島津久光の息子であり、藩主・忠義の弟である久治であった。
彼は、出兵に対し、最後まで猛反発をしていたが、藩内では、久光・忠義父子の連名で、出兵目的は討幕ではなく、禁闕守衛と布告。10月3日、一行は鹿児島から三田尻へ向け出港した。
その後、久治は、戊辰戦争が終わると、戦地から凱旋してきた兵士より、臆病者だと激しく非難を浴びせられた。そして彼は、精神を病み、ピストルによって自ら命を絶ったのである。享年32であった。
(続く。次回は5月9日付に掲載します)