(5月16日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
錦旗
三田尻に続々と薩摩船が到着する頃、京都では大久保利通や品川弥二郎が奔走していた。
10月6日、ふたりは中御門経之の別荘を訪れ、同席していた岩倉具視らと討幕、王政復古について協議した。
この時、具視は、有栖川宮熾仁親王を太政官知事とし、仁和寺宮入道純仁親王を征夷大将軍とすることを提案。利通も弥二郎もこれに賛成した。
また、具視は、玉松操が考案した錦旗の図を示し、これを制作することを利通と弥二郎に託した。
そこで利通は、京都西陣において、大和錦、純白緞子若干巻を購入し、その後、これを弥二郎らが山口へ持ち帰った。
そして、後河原にあった藩の養蚕所の一室で、有識家・岡吉春を主任として、約30日かけて日月章の錦旗2旗、菊花章の紅白旗10旗を作製。錦旗は、山口と京都の薩摩藩邸にそれぞれ半分ずつを密蔵し、このことは誰にも知らせなかった。
藩の養蚕所が置かれていたこの場所は、現在、錦の御旗製作所跡として整備されている。
すぐそばを流れる一の坂川の水は今日も清らかで、時折吹く風は初夏の香りを運んで来る。
(続く。次回は5月30日付に掲載します)