(5月30日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
制圧
かつて益次郎は、出兵尚早論を唱えていたが、それにもかかわらず、藩論は出兵に傾いた。そして、10月27日、彼は用所助役軍政専務兼任となり、軍務に専念することになった。
一方、その頃鹿児島では、26日に小松帯刀らが討幕の密勅を携え、藩主・島津忠義に謁し、京都の情勢を報告した。
この時藩内では、なおも公武合体論を主張し、出兵に反対する一派があった。そこで忠義は、大いに憂い、論告書を発し鎮静を図った。そして、帯刀らの帰藩もあり、公武合体論を制圧。29日、忠義は大軍を率いて上京することを決めたのである。
そこで大久保利通は、11月10日、藩主の命により、豊瑞丸に乗り込むと土佐へと向かった。それは、山内容堂に上京の意図を告げるためであった。
大軍の出航
11月13日、薩摩藩では忠義が西郷隆盛を従えて三邦丸に乗り込むと、鹿児島湾を出発した。
家老・島津伊勢、岩下佐次右衛門らも兵を率いて翔鳳丸、平運丸、春日丸の3隻に分乗。一行は三田尻へと向かったのである。
(続く。次回は6月13日付に掲載します)