(7月11日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
長州軍第二陣
長州軍第一陣に続き、第二陣が三田尻を出港したのは、11月28日のことであった。
総督・堅田大和、参謀・杉孫七郎らが率いる第二陣は、第一大隊二中隊200人、第四大隊二中隊200人、第三砲隊80人、森清蔵率いる整武隊400人、堀真五郎率いる鋭武隊325人の合計1205人である。一行は尾道を目指した。
この時、第一大隊二中隊の中には、二番中隊司令・有地品之允や、小隊司令・楢崎頼三の姿があった。
品之允は、四境戦争の際には益次郎に従い石州口に出張。精鋭隊に所属していたが、益田の戦いで、同僚であった周布藤吾らとともに負傷した。1869(明治2)年より欧州へ出張、帰国後は海軍中将、貴族院議員、枢密顧問官など要職を務めた。
頼三は、戊辰戦争の際、飯盛山で自刃し、唯一生還した白虎隊士・飯沼定吉を、会津から長州へ連れ帰り養育したことで知られている。1870(明治3)年には、兵部省より兵学修業のためフランスへ派遣され、後に留学生取締に任じられたが、1875(明治8)年、肺病を患いパリで客死。モンパルナス墓地に埋葬された。
(続く。次回は7月25日付に掲載します)