(8月1日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
入京
1867(慶応3)年12月8日、鳥羽・伏見の戦いが起こるひと月ほど前のことである。1863(文久3)年に起きた八月十八日の政変により、長らく追放されていた長州藩宗家、末家と、三条実美らの官位復旧、入京が許可された。長州藩が入京を許されたのは、実に4年ぶりであった。
9日には、薩摩藩を中心とする討幕派が、それまで御所の警護に当たっていた会津藩兵を追い払った。
こうした状況を確認した岩倉具視は、天皇の名のもとに「王政復古の大号令」を発表。将軍、摂政、関白といった役職が廃止され、ここに天皇親政の原則が宣言されたのである。
10日には、毛利内匠率いる長州軍の各部隊が、光明寺を本営とし、東福寺や相国寺を屯所とした。
その後、内匠は、朝廷より参内の通知を受けると、品川弥二郎の案内で、楫取素彦、長松文輔、林半七、世良修蔵らを従え、乾門より御所へ入った。
そこには、西郷隆盛や大久保利通らが待ち受けており、茶菓子などが出され歓談が行われた。
11日には山田顕義らが第二奇兵隊、鋭武隊、膺懲隊を率いて入京した。
(続く。次回は8月15日付に掲載します)