(8月15日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
薩摩藩邸焼討ち
1867(慶応3)年12月24日、江戸薩摩藩邸が焼討ちされた。
その頃、江戸市中や近郊では、薩摩藩の伊牟田尚平、益満休之助らが浪士隊を指揮し、庄内藩の屯所や庄内藩お抱えの新徴組の屯所を襲撃するなど、撹乱工作を行っていた。また、これに便乗した犯罪も多発。江戸城二の丸が不審火で炎上するといった事件も起き、市中は不穏な空気に包まれていた。
そこで市中警備に当たっていた庄内藩は、薩摩藩が事件に関与していたことを突き止めると、上山、鯖江、岩槻、出羽松山藩とともに討伐の兵を組織。薩摩藩邸に向かうと、そこで両者が激突した。この時、薩摩藩側は浪士を含む64人が討死にし、112人の浪士が捕縛され、藩邸は焼け落ちた。討伐側は11人が命を落とした。
その後、榎本武揚率いる旧幕府海軍は、逃亡した薩摩藩士らを乗せた船を追跡。28日には大坂城へその情報を届けた。そこには、徳川慶喜とともに隠忍自重していた旧幕臣や会津、桑名藩士らが滞在していた。
翌日、旧幕府海軍は、兵庫に碇泊中の薩摩船を駆逐。ここに、薩摩藩と旧幕府軍は、事実上交戦状態となったのである。
(続く。次回は8月29日付に掲載します)