(8月22日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
鳥羽・伏見の戦い
京都市伏見区中島流作町に架かる小枝橋。その下には鴨川がしずかに流れる。遠くには、山口市の名峰、東鳳翩山、西鳳翩山を思わせるような稜線がゆったりと中空を走る。
1868(慶応4)年1月3日、大目付・滝川具挙率いる旧幕府軍の主力と、見廻組は、御所を占拠する薩長両藩を打倒するため、京都郊外の上鳥羽へと迫った。旧幕府海軍の勝報が大坂城に届くと、会津藩兵ら1万5千人とともに、進軍を開始していたのである。
こうして彼らは、その日の夕刻、赤池付近において薩摩藩兵と接触。薩摩藩の椎原小弥太と関門の通行をめぐって「通せ」「通さない」と押し問答を繰り返した。
一方、伏見方面には、伏見奉行所を拠点とし、旧幕府軍、会津藩兵、新撰組が滞在していた。
この時、戦端が開かれたのは上鳥羽の方であった。押し問答が決裂すると、薩摩藩兵は、赤池から小枝橋方面に進んできた旧幕府軍を砲撃。旧幕府軍は混乱しながらも、見廻組が突撃を開始した。また、幕府歩兵もフランス式の密集隊形で攻撃したが、薩長両軍が側面から十字砲火をあびせたため、壊滅状態となった。
(続く。次回は9月5日付に掲載します)