(9月12日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
激戦の爪痕
この日、長州軍の死傷者は、第二中隊(旧奇兵隊)が討死4人、負傷後に亡くなった者2人、負傷者11人。第六中隊(第二奇兵隊)が討死1人、負傷者6人であった。
今でも町を歩くと、当時の激戦を物語る生々しい爪痕を見ることができる。伏見区京町にある老舗料理店魚三楼の格子には、弾痕の跡が残り、戦闘の激しさを今に伝えている。
長州藩諸隊の編成
長州藩では、これまで諸隊の合併が行われ、名称も変更されるなど、組織改革が行われてきたが、鳥羽・伏見の戦いが起こる前、1867(慶応3)年12月12日、諸隊の名称が廃止されることになった。この時、諸隊は、第一から第七の中隊とし、膺懲隊のみ小隊とされた。新たな名称は次の通りである。
第一中隊(旧奇兵隊)、第二中隊(旧遊撃隊)、第三中隊(旧整武隊)、第四中隊(旧鋭武隊)、第五中隊(旧振武隊)、第六中隊(旧第二奇兵隊)、第七中隊(右田一部)、第八小隊(旧膺懲隊)。
いずれも四境戦争で幕府軍を相手に戦ってきた百戦錬磨の精鋭部隊である。
(続く。次回は9月26日付に掲載します)