(9月19日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
バリケード
「市街戦だ。ところでこっちは馬関の戦などがあって巧者になっている。伏見の町の者は、皆逃げてしもうて、残らず空き家になっているから、その畳を引き揚げてきて、道の傍らへ七、八枚ずつ重ねて、横に立て懸けて楯にした。それを右側と左側とたがい違いに六、七間ごとにやって、その間から撃ったのでけが人や死人の数が割合に少ない。畳の上に頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだったが、しかし、その数は至って少ない。そのうちに向こうの陣屋が焼け出したから、向こうは火を後にしたので、こっちからよく動くのが見えるけれど、こっちは真っ暗で向こうからは少しも見えぬ―」
これは、槍の半七と呼ばれた奇兵隊軍監・林半七、後の林友幸が維新後、伏見での戦いの様子を語ったものである。
1863(文久3)年5月、関門海峡での攘夷戦。翌年、京都で起こった禁門の変、四国艦隊下関砲撃事件。1865(元治2)年1月に起きた大田・絵堂の戦い。1866(慶応2)年6月に始まった四境戦争。
長州軍は伏見の戦闘で、これまでの経験を生かし、畳で即席のバリケードを作り、旧幕府軍に迫っていったのである。
(続く。次回は10月3日付に掲載します)