(10月3日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
会津軍の奮戦
旧幕府軍が陣を置く奉行所では、北柵門において、大砲奉行・林権助率いる会津軍132人が、薩長連合軍を相手に奮戦していた。彼らは、戦いの前、旧幕府軍と持ち場争いをするなど、熱い闘志をみなぎらせていた。北柵門は、御香宮神社に陣を置く薩摩軍に対し、正面から向き合う場所にあった。
そこで戦闘が始まると、権助は、部下に槍入れを命じた。敵軍に突撃し、接近戦に持ち込もうとしたのである。これに対し、薩長連合軍は、町の商家などに身を潜めながら、会津軍のひとりひとりを狙い撃ちした。
雨のように弾丸が飛び交う中を突き進む会津軍の兵士たちは次々に死傷。いったん、元の陣地まで引き返すが、隊長権助の号令で、再び槍を持って突撃を開始した。
「我が隊を見殺しに致すも同然なり、この上は一歩も退却せず、一同潔く死を決して戦い、隊名を汚さず、名を後世に残せ―」
部下を叱咤激励する権助に、敵軍の弾丸3発が命中した。彼は、それに屈することなく座して号令を発していたが、死傷者は増える一方であった。苦戦する会津軍は、淀城下や大坂に退却を余儀なくされたのであった。
(続く。次回は11月17日付に掲載します)