(10月24日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
千両松の戦い
1月5日、この日も昨日同様、鳥羽・伏見方面には寒風が吹きつけていた。
鳥羽口においては、第三中隊(旧整武隊)が薩摩軍とともに会津軍と対峙、激戦を制覇した。
伏見口では、第五中隊(旧振武隊)が伏見街道沿いに進み、千両松において旧幕府軍と交戦。大砲2門を奪うと、勢いに乗じてさらに進んだ。
だが、この時、湿地帯の葦原の中に、会津軍の槍隊20人余りが身を潜めていた。不意を突かれた第五中隊は、司令・石川厚狭之介が槍で刺されたが、それに屈することなく、刀で相手を斬った。だが、重傷を負った厚狭助は、そこで、ついに斃れてしまった。
当時、この辺りは、一方は宇治川、一方は沼地で、その間を一本の道が走っていた。散兵戦術が使えないため、ここで第五中隊は、多くの死傷者を出すことになった。
そこにやって来たのが、中隊司令・三浦五郎率いる第一中隊(旧奇兵隊)と因州軍の砲隊である。
彼らは、砲撃を始めると、その後、葦原に潜む槍隊を銃撃。最も勇敢を極めたといわれる会津軍の槍隊は、ここで多くの兵を失うことになるのであった。
(続く。次回は11月7日付に掲載します)