「汝等、我が屍を孔道の傍に埋めよ。敵兵来侵せば、我吾が霊を表顕し、叱咤して之を排却すべし−」
長州藩の重臣・周布政之助。彼はこの言葉を遺し、自ら命を絶った。1864(元治元)年9月26日未明のことであった。享年42。この年、7月19日、京都では禁門の変が起こり、長州藩は敗北。ついで、第一次長州征討、英米仏蘭の4カ国連合艦隊による下関砲撃など、藩内の情勢はさらに悪化。政之助はその責任を一身に背負った。彼の亡骸は、遺命に従い、石州街道そばの船田墓地に葬られた。その後、墓地の近くには「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」と大書された顕彰碑が建てられた。
防長史談会山口支部長 松前 了嗣