1863(文久3)年6月7日、下関において奇兵隊が結成されると、藩内では多くの隊が組織された。当時、21歳であった内海忠勝は、家族の反対を押し切り、吉敷毛利家改革派の先駆となった宣徳隊に入隊。禁門の変、大田・絵堂の戦いに参加。四境戦争では良城隊の第五小隊司令士として芸州口に赴き、腹部に重傷を受け死線をさまよったが屈しなかった。
維新後は岩倉使節団に従い欧米諸国を歴訪。帰国後は長崎・三重県令、兵庫・長野・神奈川県知事、大阪・京都府知事を務め、貴族院議員、会計検査院長、内務大臣など要職を歴任。同郷の後輩、澤山保羅や成瀬仁蔵の育成にも尽力した。
防長史談会山口支部長 松前 了嗣