王侯貴族が力をふるっていた時代。領主は大枚をはたいて当代随一の画家を雇い、奥方の肖像を描かせました。一方、画家は実物よりも少し美しく、かといって実物とかけ離れすぎないよう、細心の注意を払って雇い主の要求に応えます。
「…確かにこれは私だわ、美しいもの」 ―〈複雑なリアル〉を解する頭脳と〈写実的リアル〉を実現する腕前。二つを合わせ持たない限り、次の仕事はないのです。
それから数百年。松田正平が描いた《M夫人の肖像》は、もはや、かつての二つの〈リアル〉とは無縁のものといえるでしょう。むしろ、この絵からは、まったく違う〈リアル〉が漂ってきます。
それは〈夫婦のリアル〉です。実をいうと、「M夫人」とは正平夫人の精子さんのこと。髪型などを見ても、モデルは確かに精子さんなのですが、描かれているのが彼女というわけではありません。その鼻のない顔には、パリで出会って以来の二人の、濃厚な15年が写しだされているのです。
山口県立美術館副館長 河野 通孝