今年の山口祇園祭は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、昨年に続いて「裸坊」による御神輿(おみこし)の巡行、山鉾(やまほこ)での祇園囃子(ぎおんばやし)の演奏、御旅所(山口市駅通り1)での鷺替行事(福引)、市民総踊りなどの中止が決まった。
しかしながら、疫病から人々を守るため「神の乗った御神輿が山口市中の御旅所に祇園社から遊行する」のがこの祭りの本質でもあり、「新型コロナウイルスや、頻発する災害の退散」を願って、神事や御神輿の移動は実施される。初日の「御神幸」と最終日の「御還幸」は、トラックを利用して御神輿を運搬。また、神事の際に大殿小もしくは白石小の5年女児4人が「浦安の舞」を舞うのが恒例行事だが、コロナ禍で練習がかなわないため、昨年に続いて中止に。7月20日(火)の「本殿祭」でのみ、大人による舞が奉納される。
新型コロナウイルス・頻発する災害の退散を願い
八坂神社(山口市上竪小路)の祭礼である山口祇園祭は、七日七夜の神事だ。
御神霊を御神輿(四角、六角、八角の3基)に移す「前夜祭・御神輿遷霊祭」は、7月19日(月)午後8時から。ちょうちんの炎だけがほのかにゆらめく暗がりの中、本殿から3基の神輿に神様の分霊を移す様子は、祇園祭の「あり方」が、最も実感できる瞬間だ。四角神輿には「稲田姫尊(イナダヒメノミコト)」、六角神輿には「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」、八角神輿には「手名槌尊(テナヅチノミコト)・足名槌命(アシナヅチノミコト)」をお乗せする。
祭りの「本番」は20日(火)からで、午後6時からの八坂神社での「本殿祭」で始まる。「浦安の舞」や「鷺の舞」も奉納され、御神輿を御旅所まで運ぶ「御神幸」は7時ごろから。裸坊が御神輿をトラックに乗せ、御旅所へと移動する。単なる運搬だった昨年と違い、今年は例年裸坊が巡行するルートを踏襲。徐行しながら、竪小路や中心商店街アーケードなどを抜ける。御神輿には、裃(かみしも)を身にまとった総代や神職も随行する。そして、到着した御神輿が裸坊によって御旅所に運び込まれた後に、「御旅所祭」が執り行われる。
24日(土)は、御旅所での「中日祭」。執り行われるのは午後8時から。
最終日の27日(火)には、御旅所での「御旅所祭」(午後7時~)、神輿の八坂神社への「御還幸」(7時半~)、八坂神社での「本殿祭」(神輿到着後)があり、御分霊を神社にお戻しし、神事は幕を閉じる。
神様に市中に鎮座してもらうことで、向暑時の疫病退散や、天変地異の災厄を払う願いが込められたこのお祭り。期間中、御旅所での参拝は、午前8時半から午後9時まで可能だ。夜には、数多くの提灯(ちょうちん)も灯される。八坂神社の小方礼次宮司は「行事は縮小するが、新型コロナウイルス感染拡大の終息を願い、密を避けてマスクを着用するなど感染防止に気を付けて、ぜひ参拝してほしい」と呼びかけている。
オンラインで市民総踊り
中止となった市民総踊りだが、オンライン上で「奉納舞踊」が実施される。
近年の市民総踊りで踊られている楽曲「大内の殿様」を、ウェブ会議ツール「Zoom」を通じて、みなで踊る。音頭をとるのは、日本舞踊家の花柳寿寛福さん。この楽曲の振り付けを考案した父の花柳寿寛さん、母の花柳佳枝広さんとともに、市民総踊りへの参加者に向けた踊りの指導を毎年担当している。
7月24日(土)午後5時半配信スタートで、御旅所から中継される。4カ国語(英語、スペイン語、ロシア語、日本語)でのガイドのもと、おはらい、お参りをした後、「大内の殿様」をリアルタイムで1回踊る。さらに、事前に収録された動画による奉納舞踊が行われる。
参加は無料だが、事前の登録(http://www.100fuku.netから)が必要だ。
山口祇園祭とは
大内氏の24代当主弘世が、1369(応安2)年に京都・八坂神社(祇園社)を勘請したのが山口・八坂神社の始まり。そして、八坂神社の祭礼・山口祇園祭は、1459(長禄3)年に28代・教弘が京都から伝えたといわれており、約560年もの伝統がある。
1492(延徳4)年の「大内家壁書」に「夏の祇園祭の見物、その外何となく築地(ついじ)の上まで上がって館内部などを見物することを禁止する。殊に御宝殿や鎮守あたりの近くの築地の上に見物人が群集し、その上、中には石築地の上に桟敷を構える者までいるが、これは固く禁止する。この禁制に背く者があれば厳しく処罰する」との触れ書きが出されており、当初からにぎわっていたようだ。
また、1520(永正17)年の「御鎮座伝記」には、以前から「地拍子」(舞ばやしや太鼓など)や「作物」(人形飾り)といった出し物が祇園祭には伴っていたが、この年から地拍子は禁止に。また、「長刀鉾(なぎなたぼこ)」「三日月鉾(みかづきぼこ)」「桃の鉾(もものほこ)」がこの年に登場したと書かれている。
そして、江戸時代初期には、15の鉾と4基の山が街を練り歩き、鷺の舞や祇園囃子など、その豪華絢爛な様は「西国一」と賞され、地元はもとより近隣の村々、遠くは石見の国から押しかけるほどにぎわっていたという。
山口市史(1982年版)には「八坂神社の祭礼、祇園祭は古くから山口名物の一つに数えられ、町の賑わいのため年々派手になっていったため1683(天和3)年3月、毛利吉就は山口代官に簡素化を諭した」とある。「他国の芸者は参会させない」などの内容で、祭りのにぎやかな様子は「飾山には、藩の費用で作られる『御上山』と、各町内の負担する『武者人形山』の2種類があった。さらに、大市、中市、米屋町、道場門前の4町内からは、別に菊水鉾、桃の鉾、三日月鉾、舟鉾と一台ずつ鉾山を出していた。その飾山や鉾山の規模の雄大で意匠の斬新なことは、神幸に先立って神前で行われる鷺の舞の古風ゆかしさとともに、近隣の村々はもちろん、遠く石州方面にまでも評判に。藩の訓令に従って簡素化すれば人出も減少し、経済的に打撃を受ける。そこで各町内は山飾りのできばえを勢い競った。毎年かかる多額の費用は、積み立てをするなどして支出した」と書かれている。
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