ここ数ヶ月、時代小説ばかり読んでいる。幾人かの作家の時代小説を読んだ。内容、文体はもちろん違う。しかし、そこには情というもの、明るい哀歓、が漂っている(そういうものを選んだこともある)。
私はその情や哀歓―生暖かく少し湿っている―に触れたことがある。知っている。それを書き表すのは難しくて、考え続けていた。
ある日、ぽっと口をついて出てきた言葉は「またぐら」。漢字表記は「股座」。両ももの間、と辞書にあるが私の言う「またぐら」はあぐらで出来る股の穴である。「あぐら(胡坐)」とは“両足を横に広げ前に組んで、楽に座る”こと。その穴にすっぽりと座ったときの感じ。大人に背中から包み込まれ、体温のほのかな暖かさに抱かれる。絶対の安全、安心が得られる。私が股座に座った時間はせいぜい五年間くらいのことだろう。それがまだ残っている。幼児の記憶はあなどれない。
何故股座に座りたいのか。“自己の存在そのものに対する懐疑である(五郎冶殿御始末・浅田次郎著)”。自分の存在に懐疑し続けているから、あの昔のように誰かに自分をゆだね肯定され、頭でも撫でてもらいたいのだ。時代小説は頭を撫でてくれる。友人の一言。
「あなたは甘えたいのよ。変な人ね」。