「三田尻の旅亭を発し、宮市天満宮へ参拝す。鯖山峠にて午餐(ごさん)を認(したた)め、三(御)堀外郎屋にて小休、此処へ山口町役人等出迎えの為来る」
1871(明治4)年12月15日、護身用の七連発のピストルを携え、東京から山口へひとりの旧幕臣がやって来た。中野梧一(なかのごいち)である。
1869(明治2)年5月、当時、斎藤辰吉(さいとうたつきち)と名乗っていた彼は、箱館五稜郭で、榎本武揚(えのもとたけあき)らとともに新政府軍に抗戦するも敗北、捕虜となった。釈放後は大蔵省に出仕、そこで長州藩出身の大蔵大輔(おおくらだゆう)・井上馨に抜擢され、山口県へ初代参事として赴任。全国に先駆け地租改正事業に着手するなど県政をリードし、権令を経て県令へと昇進した。
防長史談会山口支部長 松前了嗣