「コロナ」も「ウクライナ」も深くは知らない。新聞やテレビの報道以外の知識はない。不安だ。これらをどのように言葉で捉えているのか、先輩詩人に尋ねたい。詩人の眼は確かだ。“なぜなら詩は、人間を人間たらしめるところの言葉という根源に、もっともダイレクトに、またもっとも深くかかわっているからです”(野村喜和夫)
幸福 清岳こう
お天道様が畑の縁から顔を出すと/馬に鋤を牽かせまっすぐに耕して行き/女房が小麦の種をまきながらついて行く/お天道様が頭の上に昇る頃/馬に鋤を引かせてまっすぐ耕してもどり/女房が小麦の種をまきながらついて行く/やがて お天道様は畑のむこうにゆったりと沈む//こうして 一生が暮れて行く村もあった
小麦が実り収穫し、香ばしいパンを焼く。皆で畑の縁に座りいただく。風が渡り花が咲き、鳥が鳴く。そんな平和な村で一生を過ごす。それこそ人の幸福。清岳氏の眼です。
詩人林嗣夫氏の眼は、詩「はつなつ」の中にこう書きます。
○〇さん、お変わりないですか/なんだか/この世のすべてが斜(はす)向かいになって/崩れていきそうですね//はつなつの/あなたにまた会いたい/おいしいビールを二人で飲みたい
私もご無沙汰のあなたに会いたい。