1853(嘉永6)年6月、浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリーが来航すると、翌年、小郡宰判(さいばん)では、近隣の農民などの中から猟銃を持っている者を集め、射撃訓練を開始。これが母体となり、1861(文久元)年5月、小郡郷勇隊の結成となった。採用された農兵たちは、代官所から武器を貸与され、家業の合間に、中領八幡宮(なかりょうはちまんぐう)境内、林光(りんこう)・東津(ひがしづ)の河原、岐波村(現・宇部市)の丸尾崎などで銃陣訓練を行った。指導に当たったのは、小郡代官を務めた北川清助、集義隊(しゅうぎたい)を創設した桜井慎平、小郡郷学校で教師を務めた坪井直江らであった。
下関で奇兵隊が結成される2年ほど前のことであった。
防長史談会山口支部長 松前 了嗣