文久3年(1863)の下関戦争後、海外勢力から山口を防衛するために、この鳥居から椹野川に至るまでの長い柳井田関門と二つの台場が設けられた。林勇蔵ら小郡宰判の有力者が資金と人夫を供出し、わずか10日間で完成させたと言われている。この関門によって他藩の出入りは厳しく制限され、不審者は切り捨てても良いとされたほどだった。
関門付近で実際に戦いが行われたのは「脱隊事件」の時のことである。明治3年(1870)、桂小五郎率いる鎮圧軍と旧奇兵隊士たちが血で血を洗う戦いを繰り広げ、鎮圧後、旧奇兵隊士108人が斬首された。かつての盟友同士が殺し合うという長州藩に暗い影を落とした何とも悲惨な戦いだった。
文・イラスト=古谷眞之助