一杯目の珈琲は円やかな甘さがあっておいしかった。暑い日が続くと、自宅では短い文章も頭に入らない。昔からなかった集中力がゼロになる。それで冷房の効いた喫茶店に逃げ込む。
珈琲は、ポットに二杯分入って運ばれる。一杯目の珈琲を味わいながら、私は『葦の中の声』(須賀敦子)を読んだ。中にアン・リンドバーグの著書から引用された「さよなら」について書かれた文章があった。あらましはこうだ。”「さよなら」はもともと「そうあらねばならぬのなら」という意味だ。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ。フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。なのに日本の人は、別れにのぞんで、そうあらねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ”
二杯目を注いだ。苦くて喉に刺さるような味になっていた。
「さよなら」には再会はないのだ。そうあらねばならないのなら、仕方がない。もう会うことはない。
珈琲の通る喉に鉄拳をくらった。美味しい珈琲は逃げてしまった。
「さようなら」と何度も口にしてきた。その度に淋しい気がしたものだ。「さよなら」は止めて「またね」と言おう。「またね」は再会を含む。好きな人には幾度も会いたい。苦い珈琲には「さようなら」だ。