1863(文久3)年5月、藩庁が萩から山口に移転した翌月、長州藩では久坂玄瑞らが下関で外国船を砲撃、6月には報復攻撃を受けた。
その頃、山口では密偵の侵入を防ぐため、他国人の立入りを禁止し、諸口を封鎖することとした。
その後、吉敷の大峠、小郡の国守・柳井田・林光(りんこう)、陶・鋳銭司から黒川へ抜ける陶峠と鎧峠、切畑と小鯖を結ぶ千切(ちぎり)峠、鯖山峠下の勝坂、仁保の井開田・一ノ瀬に関門が置かれ、宮野には番所が設けられた。
こうした中で、一ノ瀬関門の守衛を任されたのが国司信濃の親族たちであった。
また、かつて一ノ瀬地区には、関門という屋号を用いた家があったとも伝えられている。
防長史談会山口支部長 松前 了嗣