天保9年(1838)、吉富簡一は矢原で代々大庄屋を務める吉富家の長男として生まれ、17歳にして当主となった。前回の林勇蔵とは親戚筋に当たり、若年で大庄屋となった簡一にとって勇蔵は良き師でもあった。
また湯田に住んでいた井上馨とも仲が良く、元治元年(1864)、袖解橋で彼が刺客に襲われた時には所郁太郎を呼んで畳針の手術によって救ったことは有名な話である。晋作の決起に呼応して簡一は、慶応元年、井上を総督とし、自らは参謀となって鴻城隊を結成した。同隊の明木での藩政府軍との戦いの勝利の陰には簡一の見事な采配があった。このため、以後山口県議会議長時代も含めて彼は「矢原将軍」と呼ばれたという。
文・イラスト=古谷眞之助