150年前の1872年(明治5年)10月14日、わが国で初めて新橋横浜間に鉄道が開通しました。
その区間29kmを9両編成の蒸気機関車(SL)は、わずか53分で走り抜けました。当時、徒歩では、朝出ると夕方に着くくらいでしたから、鉄道は、人々に驚きをもって迎えられました。とても便利な社会の到来。鉄道は、明治近代文明のシンボルとなりました。
因みに乗車料金は、最も安い「下等車」は、37銭5厘。当時のお米10kgの価格と同じ程度のようでした。
この鉄道敷設に尽力した人こそ、長州ファイブの一人で留学先の英国から明治元年、帰国し、小鯖芦谷(あしだに)の父親の居宅のもとに戻った井上勝(まさる)(25歳)です。
勝は、ロンドン大学で英語をはじめ、鉱業、鉄道などの近代技術を学んだことから、鉄道敷設に必要な人材として、翌年、木戸孝允から明治政府に招聘され、小鯖の地から青雲の志を抱いて上京。二つ歳上の伊藤博文の家に寄寓。
英国のお雇い外国人の指導のもと、日本人の工事責任者として奮闘。
式典当日、午前10時、品川沖の軍艦から21発の祝砲とともに新橋停車場(ていしゃじょう。当時は駅と言いませんでした)から横浜に向け出発進行!
記念すべき1号列車には、「陛下どうぞ」と明治天皇(20歳)の先導役を「鉄道頭(てつどうのかみ)」井上勝(29歳)が務めました。
来賓として各国公使、毛利元徳などの旧藩主、参議の大隈重信も乗車しました。(木戸、伊藤は、「岩倉使節団」として米国、欧州視察中)。
列車内で勝は、陛下に鉄道工事の概要を奏上。お褒めの言葉をいただいた勝は、日本の大動脈となる東海道線をはじめ、全国に鉄道網を張り巡らせようと決意を新たにするのでした。
遥か小鯖の地では、山口藩庁に勤務していた勝の父「勝行(かつゆき)」は、長崎で洋学を学んだこともあり、人一倍近代技術に造詣が深かったことからも、鉄道開通に携わった息子の今日の晴れ姿をきっと感慨深く見守っていたことでしょう。
投稿者:ノムラン会会長 樫部裕人さん